金子みすず

f:id:vasat:20160402215503j:plain金子みすずの詩集を読み返していて、特に好きな詩について分析してみました。

金子みすずといえば、「わたしと小鳥とすずと」や少し前、CMで使われていた「こだまでしょうか」などが有名ですよね。

ここちよいリズム感に加え、他に気がついた点、思ったこと、を挙げていきます。



「草の名」
人の知ってる草の名は、
わたしはちっとも知らないの。

人の知らない草の名を、
わたしはいくつも知ってるの。

それはわたしがつけたのよ、
すきな草にはすきな名を。

人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。

ほんとの名まえを知ってるは、
空のお日さまばかりなの。

だからわたしはよんでるの、
わたしばかりでよんでるの。
金子みすず童謡集20、21ページより)

ハッとさせられる1行。

人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。

これ、ほかのものにもすべて、当てはまりますよね。だれかがつけた名前だということを忘れて、その名まえが当たり前だと思ってしまうことに、ブレーキをかけてくれることば。

自分のずきなものにすきな名まえをつける、よぶ、という行為は自分のなかの「すき」の基準を自分で確かめることができると思います。

自分と向き合うこと、とも言えるなぁと感じる詩です。




「こころ」

おかあさまは
おとなで大きいけれど
おかあさまの
おこころはちいさい。

だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。

わたしは子どもで、
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。

だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。

金子みすず童謡集126、127ページより)

裏切り(衝撃)→そういうことかぁ。のコンボ。緩急があるなと感じます。

入りでいきなり、おかあさまのおこころはちいさい。
と言い切ってしまう。

えっ?お母さんのこころって、ちいさいの?!

と、やさしい、とか、寛大、とか、ゆったりとした、という「母」のイメージを裏切る。

だって~以降で
ちいさいわたしでいっぱいだって。
と続くと

あぁ、そういうことかぁ、とほっこりします。

そのあとに続く、ちいさいわたしのこころはおおきい~いろんなことをおもうから。で、確かにそうかもしれないなぁ。と思う。

おとなは日常の煩雑なことで、こころの容量が少なくなっていて、子どもは、いろんなことを思えるような広ーいこころがあるのかもしれないと。

こんなに短くて、こんなにシンプルな言葉しか使っていない詩なのに、いろんな要素があって深いなぁと思わせられます。