金子みすず
金子みすずの詩集を読み返していて、特に好きな詩について分析してみました。
金子みすずといえば、「わたしと小鳥とすずと」や少し前、CMで使われていた「こだまでしょうか」などが有名ですよね。
ここちよいリズム感に加え、他に気がついた点、思ったこと、を挙げていきます。
「草の名」
人の知ってる草の名は、
わたしはちっとも知らないの。
人の知らない草の名を、
わたしはいくつも知ってるの。
それはわたしがつけたのよ、
すきな草にはすきな名を。
人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。
ほんとの名まえを知ってるは、
空のお日さまばかりなの。
だからわたしはよんでるの、
わたしばかりでよんでるの。
(金子みすず童謡集20、21ページより)
ハッとさせられる1行。
人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。
これ、ほかのものにもすべて、当てはまりますよね。だれかがつけた名前だということを忘れて、その名まえが当たり前だと思ってしまうことに、ブレーキをかけてくれることば。
自分のずきなものにすきな名まえをつける、よぶ、という行為は自分のなかの「すき」の基準を自分で確かめることができると思います。
自分と向き合うこと、とも言えるなぁと感じる詩です。
「こころ」
おかあさまは
おとなで大きいけれど
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで、
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。
(金子みすず童謡集126、127ページより)
裏切り(衝撃)→そういうことかぁ。のコンボ。緩急があるなと感じます。
入りでいきなり、おかあさまのおこころはちいさい。
と言い切ってしまう。
えっ?お母さんのこころって、ちいさいの?!
と、やさしい、とか、寛大、とか、ゆったりとした、という「母」のイメージを裏切る。
だって~以降で
ちいさいわたしでいっぱいだって。
と続くと
あぁ、そういうことかぁ、とほっこりします。
そのあとに続く、ちいさいわたしのこころはおおきい~いろんなことをおもうから。で、確かにそうかもしれないなぁ。と思う。
おとなは日常の煩雑なことで、こころの容量が少なくなっていて、子どもは、いろんなことを思えるような広ーいこころがあるのかもしれないと。
こんなに短くて、こんなにシンプルな言葉しか使っていない詩なのに、いろんな要素があって深いなぁと思わせられます。